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過剰なメンタリティ。オバサンと生物多様性。 [気になること。]

By paolofefe - Photograghy Is Color
何ともせつない、想い出話をしよう。

若かりし頃、友人のひとりが、脱サラをしてモーターサイクルショップを始めた。
探しに探しまくり、最終的に選んだ物件は、街道に面していた。
近くに大学やデザイン系の専門学校があった。

既存の「オートバイ屋」の雑然としたイメージとは一線を画したい。
そう考えていた彼は、カフェ、あるいは 雑貨屋的な、
近所のおしゃれな学生が溜まり場にしてくれるような、
そんな場所を思い描いて開店した。

開店当初は、彼の思い描いたとおり、おしゃれな若者が店を覗きにきていた。
そして、そんな彼ら・彼女らのために、本格的なコーヒーを安価で出し始めたのが、
彼の誤算の始まりだった。

安くておいしいコーヒーは評判になった。当然だ。
採算度外視、原価割れで出していたのだから。
客が全くいない店は、なかなか入りにくい。
常に人影のある店でありたい。
コーヒーは、店頭に客をディスプレイするための撒き餌、
つまり広告宣伝活動だったのだ。
しかし・・・・・である。
コーヒーにつられて、常時、店頭にいるのは、
近所のオバチャンだった。
安くておいしいコーヒーにつられて、毎日のようにやって来る。
人数も増殖していく。
もう一度、最初に戻るが、彼の店は「モーターサイクルショップ」だった。
それも、オバチャンの買い物スクーターのパンクやマフラーの詰まりを修理するような店
じゃなくて、大型のスポーツバイクを展示している「高級な趣味」の店だったのだ。
そんなオバチャンたちでも、
たとえば、一念発起して大型オートバイの免許を取得し、皆でツーリングをする
というような夢のある女性のグループだったなら、話は別だが、
あくまでも茶を飲んでおしゃべりをする、というだけのオバチャンたちだった。
つまり、店には何の経済効果ももたらさない。何も買わない。
ただ、店が広告宣伝として原価割れで実施しているコーヒーサービスを利用しているだけ。
利用すればするほど、店にとってはマイナスなのだが、当のオバチャンたちは
自分たちを「客」だと思っている。
私の個人的な感覚では、経済効果をもたらす者こそが「客」なのだけれど。
(ま、キャッシュフローも経済効果なのかもしれないが、プラスに働くキャッシュフロー
でなきゃね。)
おしゃれな若者狙いの店のカウンターに、
近所に住む普段着のオバサンたちがたむろす異常さを想像してもらえるだろうか。

By paolofefe - Photograghy Is Color
集客効果どころか、むしろ、ドン引き効果、「逆」集客効果だ。「逆」経済効果ですらある。
しかし、店の近所の住民であるし、本人たちは自分たちを毎日のように「お金を落とす」
客だと思っているのだから、お引取り願うこともなかなかできなかった。
彼の穏やかな性格も災いしていた。
それだけが原因、とは言わないが、客足がめっきり遠のいて行き、結局、
彼はその店をたたんで再出発を図らざるを得なかった。

オバサン。
私がこの言葉に愛を込めないで使う場合は、「過剰さ」への拒否反応を示す場合が多い。
オバサンとは、年齢を重ねた女性のことではなく、「節度のない過剰なメンタリティ」のこと
というのが私なりの感覚だ。
その意味では、昨今よく言われる「生物多様性」や「外来種」なんていうのは、まさにオバサンの概念を
説明するのにピッタリはまると思うのだ。
「生物多様性」という言葉から考えると、まさに「多様」なのだから、オバサンという品種そのものが
エントリーしてくること自体には、問題はないと思う。
問題は、全体のなかの1ピースとしてバランスよく存在できずに、他の種類を蹴散らしてしまう
「過剰な」存在になってしまうことなのだと思う。
よく、日本人は「自己主張がヘタ」というような論調で、こういう「過剰なメンタリティ」を擁護する
ケースもあるけれど、得てして極論になりがちだ。どんなモノにも、押す時と引く時があるだろう。
押すことだけを肯定することが本当に正しいのか。バランス感覚も日本人の美徳だと思うのだが。
「生物多様性」が損なわれているのは、結局、ニンゲンが、お呼びでない場所にしゃしゃり出て
余計なことをした結果じゃないだろうか。
つまり、ニンゲンは、本質的に過剰なメンタリティの持ち主、つまり、「オバサン」なのだ。
だから、自分の「オバサン」性、過剰なメンタリティが暴走していないかを振り返る気持ちを
持っていないと、過ちを繰り返すと思うのだが。
私も、オバサンなんだよと。
思い込みのプリズナー。 [気になること。]

先週は、ほぼ東京で過ごした。
年に一度、アメリカからビジネスパートナーの会社の幹部を迎え、
会議を行なう。あるいは、親睦を深める。
その一切を私が取り仕切るが、相手はたかだか2名のことなので
さほど負担は大きくない。しかし、なんだかんだと結構気は遣う。

by LGEPR
今回は、ボスの一声でアシスタントがついた。
海外子会社の統括部門に最近入ってきた英語堪能な女性だった。
私は普段大阪にいるので、その女性と電話やメールである程度
打ち合わせをしたのち、彼らが来日する日に初めて東京で顔を合わせた。
背が高くてスタイルのいい、なかなかの美人だ。
彼らのテンションも上がりそうだ。
彼女には、主に観光関連のアテンドを依頼した。
観光の大まかなルートやプランは私が立てたが、大阪にいる私の
ラフなプランを元に、彼女はいろいろと細かい部分の提案をしてくれた。
私が最初にちょっと脅かしたせいもあり、
彼女は、相手は非常に重要な存在で、何とか失礼のないように対応しなければ
と思っているようだった。
他社で5年以上の社会人経験を積んでいる、とはいうものの、
わが社における「初陣」なので、気合も入っているのだろう。
そして、大事な客を迎えるという割りに、
当の私のプランは非常にザックリとしていて穴だらけ、
というふうに彼女は感じているようだった。
曖昧なことは許せない性格なのか、打ち合わせ中に
「それはどういう意味ですか?」
と何度もこちらの意図を確認してきた。
こういうことは非常に大事で、表現の意味合いを曖昧なままにしておくと、
後でいろいろな問題を生じることがあるから、そういう部分では頼もしく感じた。
しかし、私がもう10歳か20歳若かったら、ちょっと煩わしいイメージを持った
かもしれない(笑)。
基本的には、彼女の提案に合わせて、私の原案を修正していったのだが、
途中で彼女が、「ここに運転手付きのクルマを待機させます」と言った時点で
私は彼女の発言を遮った。
「そこでタクシーを拾えないの?」
「拾えなくもないかもしれませんが、クルマを待機させたほうが間違いないと
思いますけど・・・・」
「それはダメだね」
「えっ、なぜですか?お客さんを次へお連れするのにクルマを待機させる必要が
あると思います。じゃあ、代案を聞かせて下さい。」
私のプランは具体性がなくて行き当たりバッタリ、自分のプランは客をスムーズに
動かせる完璧に近いもの、というふうに彼女は思っているみたいだった。
どうも、私をいい加減なオッサンと思っているようだ。その評価は間違っていないけど(笑)

その夜。
昼過ぎの飛行機で来日した彼らと、ボス、彼女、私は、
彼らがチェックインした某一流ホテルのレストランで食事をした。
ボスの巧みな話術で場は盛り上がり、彼らも日本での最初の食事を
堪能した。
しかし、彼らは日頃から食事や運動の量に対する意識が高いので、
おいしい料理であっても大量に食するようなことはない。
セルフコントロールに徹している、というか、それが完全に生活パターンとして
定着しているようだ。
ボスは彼らとの会話を続けながら、私に目配せをした。私も「頃合い」だと思っていた。
私はそっと席を立ち、フロアにいた女性に
そろそろ食事の締めにしたいのでデザートを出してもらえないか、と訊ねた。
しかし、その女性は、まだコース料理が二品残っており、デザートはそのあとになるので
もう少し料理を楽しんで欲しい、と言った。
料理は楽しんでいるが、すでにゲストは満腹なのだと私は言った。
しかし、料理をコースに則ってサーヴするのが店の流儀で、それを途中で打ち切るのは
無粋な客、的な捉え方をされているようだった。
「無粋」な私は会話も打ち切り、精算を求めた。

次の日の午後。
彼女と私は彼らと観光に出た。
しかし、実際は私がプランしていたコースとは全く別モノになり、彼らの気分に合わせて、
買い物をしたり、散策したり、日の高いうちから酒を呑んだり、ということになった。
前夜の一件で、彼女はやっと私の意図するところが見えたらしく、素晴らしく柔軟な対応で
スムーズに動いてくれた。パーフェクトだ。
私は自分なりの観光プランを作ってはいたが、そんなものには全くこだわりがなかった。
彼らが喜んでくれるようなコース作りを考えたけれど、実際は現場での対応が大事だから。
彼らのリアクションが良ければそれで良し、
食いつきが悪いようなら状況に応じて別のモノに変える。そういう柔軟性が必要だ。
目的は、彼らを楽しませることであり、彼らにコースを消化させることではないから。
そのためには、変更できる選択肢を用意しておかなければならないし、その意味で、
ひとつに絞り込んでいない私のプランを、彼女はリアリティがないと思っていたようだ。
しかし、一つに決めつけて、それしかできないような硬直したプランなんて作っても
意味がない。
彼らはそれでもつき合ってくれるだろうが、それをさせても結局はこちら側の「自己満足」
でしかない。
たとえば、運転手付きのクルマを待たせる、なんていうのは、まさに硬直した発想で、
途中でゲストの気が変わっても、そこまで行ってもらわざるを得なくなる。
ホスト側本位の発想でしかない。ショートカットしてデザートへ進むことができない。
いちいち解説しなくても、賢い彼女は、前夜のレストランの一件から、「接待」に関する
私の考え方を理解してくれたようだった。
それまでにも私の考え方を説明したつもりだったが、具体例があったほうが格段に
分かり易かったのだろう。
いずれにせよ、いい一日を過ごせた。彼女に感謝した。

こんなふうに、彼らへの対応は概ねうまくいったと思っていたのだが、ボスにひとつ指摘を受けた。
わが社にはいくつかの会議室がある。
収容人数が多くなるほど「会議室」の色合いが濃くなり、人数が少ないほど「応接室」の要素が強くなる。
つまり、大きな部屋は「身内」向けの造りで、小さな部屋は「来客」向けの造りだということ。
彼らを交えた会議は人数が多いため、通常、「会議室」系の部屋を使う。それが慣例となっており、
今回も「会議室」系の部屋でミーティングした。
しかし、今回は、直前で海外出張に出て、会議を欠席した者が何人かいたので、通常の場合よりも
参加人数が減っていた。つまり、「応接室」系の部屋に収まる人数になっていた。
ところが、「会議室」系を使うという先入観に囚われていた私は、人数が減ったにもかかわらず、
「応接室」系へ移るという発想ができなかった。そのまま「会議室」で会議をした。
その「硬直」した行動をボスに指摘されたのだ。
自分は柔軟な発想ができる、と自惚れていたが、結局は私も「思い込みの牢獄」に繋がれている
囚人のひとりだったというわけだ。

by B. Chales Johnson
素材と料理のウデ。あるいは、イメージとフィルター。 [気になること。]

ああ、あ・・・暑い。8月に入った。
小学生の息子たちは、宿題の残量を気にしながらも、連日遊び続けて
真っ黒になっている。
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By ajari
4年生の長男は、1学期に児童会役員の「書記」に立候補し、彼の人生
における初の「選挙戦」を闘い、そして・・・・・敗れた。
選挙活動に関しては、「ああしろ、こうしろ」的な細かいルールはあまりなく
自主性に任せられていたようで、選挙ポスターの掲示場所とか、立会演説
会のスケジュールくらいしか決め事はなかったようだ。
つまり、義務付けられている行為は少ないから、「自主性」や「創造性」、
「積極性」が問われるワケで、他の候補が積極的に各教室を回って演説して
いるのを見てから、「ああ、こういうふうにやるものなのか」と遅ればせながら
長男は選挙活動の進め方に気づいたらしい。
しかし、ネタ(演説用の原稿)は、演説会の分しか用意していないので、
教室巡りを躊躇したという。
「ハハハ」私は言った。
「そうか。同じ話を何回も聞かされたら、みんなウンザリすると思ったのか。」
長男は頷いた。
「それは、おまえが自分で書いた原稿で、内容を自分がよく知っているから
そう思うのさ。
たとえば、授業のことを考えてみろ。
先生の言ったことを、みんながみんな1回聞いただけで100%理解
できると思うか? そんなことはないだろう。
1回聞いたって、何もかもが聞き手のアタマに入るもんじゃない。
むしろ、同じ原稿を何度も何度も聞いてもらって、どこでみんなの反応が
いいか、どこでみんなの反応が鈍いがを見ながら、話し方や言い回しを
手直しするというやり方もあったような気がするな。」
「・・・・・・そうか。そうだね。」
「こんなこと、言わなくても分かっていると思うけど、おまえが選挙で
選ばれなかったのは、おまえが嫌い、とか、おまえなんかダメだ
とみんなに思われた訳ではないということだ。
要は、おまえの良さをおまえ自身がみんなに充分に伝え切れなかった
んじゃないかな。
おまえよりも書記に向いているヒトかどうかはともかく、少なくとも
おまえよりも 自分の良さをうまく伝えることができたヒトが当選
したんじゃないかとオレは思うよ。」
「・・・・・うん」
ちなみに、長男が立候補した動機は次のようなものだ。
学級会の書記をやってみたが、書記ってムズカシイ。
みんながすごい速さで次から次へと自分の意見をバラバラに言い合って行く。
そんな内容をきちんとまとめて記録に残すことは、非常に難しい。
だから、自分はこんな難しいことに挑戦してみたい。
やりがいを感じる。
これは、父親から見れば、いかにも長男の言いそうなことで、本音だろう。
しかし、あまりにも優等生的というか、修行僧みたいな話だ。
同級生や上級生に、どう響いたのだろう。彼の気持ち、考えは理解して
もらえたのだろうか。
「落選」という結果からすれば、聞き手にとってはピンと来ない話だった
のだろうか。
ただ、終業式の日にもらってきた成績表(通信簿or通知表)の通信欄に
書かれていた
「選挙の時は自分の思いをみんなに懸命に伝えようとしていました」
という担任のコメントは、私にとっては救いに感じられる一言だった。
そして、
私の方は・・・・といえば、このところ、某メジャー新聞のモニターをやっている。
約5千人ほどの希望者のなかから、約5百人が選ばれたらしいが、志望
理由書を書いている時点で、なんとなく自分は選ばれるな、という予感が
あった。
そして、選ばれた。
40代半ばで失業し、半年近く続けた就職活動のおかげで、セルフプロモ
ーションのしかたがなんとなくつかめた感じがある。
こう書けばイケるんじゃないか、と思ったら、案の定、採用通知を得た。
しかし、そこからは、悪戦苦闘が続いている。
週ごとに、「良かった記事」「悪かった記事」を挙げて、その理由を書くという
シンプルな活動なのだが、これが意外と難しい。
モニターの対象は、記事の内容ではなくて表現や構成、つまり「素材」では
なくて「調理法」だからだ。
おいしいモノを食べた時、それが素材の良さなのか、調理法の巧みさなのか
を切り分けるのは、実は至難のワザだ。
しかも、直接、ナマの素材には触れられないから、素材については想像する
しかない。
素材(事実)がそうなのか、なんらかの処理(書き手の思惑、誘導)が加えられて
いるのか。
書き手に「主張」があること自体は否定の対象とはしないが、その表現の手法が
アンフェアなものや明らかにミスリードであるものは指摘しなければなるまい。
また、同様に、「良い記事」とは心温まるニュース、「悪い記事」は不安・不快に
なるニュースというわけでもない。
しかし、素材自体のイメージそのものに影響を受けやすい。
つまり、ちょっといいエピソードには心を魅かれやすく、ダークな話題にはネガ
ティブな反応をしやすくなる。
それをいかに抑えることができるか、という部分でも、一つの内なる闘いがある
のだ。
各モニターのコメントは集計され、そのうちのいくつかは代表意見としてピック
アップされて、筆者以外のモニターにも読める仕組みになっているのだが、
これが非常に面白い。タメになる。
上述のように、記事内容の雰囲気やインタビューの対象となった者への好感
のみに引き擦られるような賛辞を見ると、「あ~あ」と思う反面、見事に分析
されたクールな批評を見ると、「これはスゴい。このヒトはレベル高いなぁ。」
と嘆息を漏らすこともある。
私は、サラリーマンのサガで、データ分析やアンケートに恣意性が感じられる
ものや、明らかな予断で書かれていると思われるものには敏感に反応して
しまうが、同じ記事の評価でも、数段レベルの高いものを見て愕然とするのだ。
なるほど、ここまでいけるか。まだ甘かった。そんなふうに素直に思える。
但し、記事自体のストーリー性そのものを否定しようとは思わない。
たとえば、サラリーマンのプレゼンには、当然、ある種の主張(恣意性)が
入る。
しかし、それは一種の「仮説」の構築であって、それを試したいという意味で
プレゼンをする。
ゴールから遡って逆算的にネタ合わせをするというか、「結論ありき」での
辻褄合わせ的な素材のコーディネイト(自己弁護的に「理論武装」と称するが)
も確かに存在する。
ただ、それを検証したあとで一定の成果が確認できなければ、その仮説は
誤りだったということになるだけだ。
一方、新聞記事の場合は、往々にしてそれが「仮説」ではなく「事実」として
読者に受けとめられてしまうことがあるので、その辺りの微妙なボーダーライン
を探ることが仕事の一つなのかな、という思いがある。
いわゆる「決めつけ」というヤツで、事件報道によくある「犯人扱い」などは、
「仮説」なのか、確たる根拠があるのかがハッキリしない場合がある。気になる。
そして、こういう話は、まさに「コミュニケーション」そのものだと思う。
日常会話のなかでも、それは相手の「思い」なのか「事実」なのかの
切り分けを曖昧にしておくと、後で痛い目にあうことがある。
耳触りのいいことを言うが、実は全くの感情論や無根拠な予断でしかない
主張をするヒトにも要注意だ。
あるいは、スジの通った話なのに耳の痛い話をするヒトに対しては、えてして
悪いイメージを抱きやすいという懸念もある。
そういうことにあらためて気づく。
プロの書き手に批評を加えるなんておこがましい、と思いつつも、自分のなかの
フィルター磨きに精を出す毎日である。
カタルシスと何らかの付加価値。 [気になること。]
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By Gibsonclair
春色の汽車に乗って海に向かっていた・・・・
わけではなく、郊外にある工場に向かって大阪駅から電車に揺られていた。
クロスシート四人掛けの席には、進行方向向きの窓側に私、あとの3人も年齢層こそやや違うものの、
同じような地味なスーツ姿のサラリーマンだった。
昼過ぎのポカポカ陽気のなか、海沿いを走る電車の窓辺でうつらうつらしていたのだが、やがて静寂は
破られた。
気がつくと、他のサラリーマン諸氏はいつのまにか下車しており、他の3席は50代半ばくらいの女性に
替わっていた。
この3人がのべつ喋っているのだが、とにかく声が大きい。車内に響き渡るというレベル。
居眠りを邪魔された私は、ぼんやりと外を眺めていたが、聞きたくなくともその会話が耳に入ってくる。
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by M.a.t.t.i.a.
ひとりは、洗濯物が多いから水道料金が高くなってかなわないという話を、もうひとりは、高血圧で
医者に通っているという話をし、残りのひとりがそれぞれの話に合の手を入れるというパターンだった。
全く別の、それぞれが話したい(ボヤキたい)ことを、ただ話して(ボヤいて)いるだけだった。大きな声で。
やがて、電車は目的地に着き、私は先に降りることになった。
私が三人のあいだを抜けようとすると、私の隣りに座っていた「水道料金」の女性が、
「ごめんね、大きい声でしゃべってて。眠れなかったね。」
と言った。
私は、せっかくなので、最高のしかめっ面をその女性に拝ませてあげた。
ホームを歩きながら、私は、自分は何が気に入らなかったのかを考えた。
昼寝を邪魔されたことか? そうではないと思う。
私には昼寝をする自由があるが、彼女たちにもおしゃべりをする自由がある。
まあ、昼寝をする自由のほうが、他の乗客の迷惑にはなりにくいが。
熟睡して、隣りのヒトにもたれかかっていかない限り。
私の去り際に謝罪してきたことが気に入らなかったのだろう。
ホントに居眠りの邪魔をして申し訳ないと思うなら、最初から静かにしておけ。
他人の休息を邪魔してでも、おしゃべりがしたかったんだろう。我慢できなかったんだろう。
それなら、それでいい。なんでしょうもない言い訳をするんだ。
自分はホントは気遣いができるニンゲンだとアピールしたかったのか。
そうとは思えない出来事のあとで。
それぞれ、自分の欲求の通りに行動した。
オレは自分の欲求に従って居眠りをし、アンタらはおしゃべりをした。
それでいいんじゃねえの。問題は、双方の欲求は両立できなかったことだけだ。それが真実だ。
心にもないことをゴチャゴチャ言うんじゃねえ。
そう感じたような気がした。
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by tess
しかし、しばらく考えると、それもちょっと違う気がしてきた。
結局、あの状況が気に入らなかった理由は、オバチャンたちの会話があまりにもつまらなかったからでは
なかったか。
それぞれが自分の言いたいことを言うだけで、相手の話題に近づくこともない。
テンポもリズムも悪く、スイングしない会話。
これが、たとえば、水道料金の節約方法みたいな豆知識とかハック的なものがちりばめられていたら、
熱心に傍聴できたかもしれない。
あるいは、互いに巧みなボケや突っ込みを交えていたら、引き込まれていたかもしれない。
いやでも耳に入ってくる話なら、せめて面白い、興味深い話がよかったなぁ。
そういうことだろう、結論は。
関西のオバチャンの会話はオモロイ、的なイメージはあるが、みんながみんなトークの達人
というわけでもないのだろう。
でも、これが電車を降りるのが残念なくらい、面白い話をしてくれてたら、全然、状況は
違ってくるのに。
-f06c6.jpg)
by Tiago●Ribeiro
いずれにしろ、あの女性たちは「吐き出したかった」んだろう。
面白いとか、面白くないとかいう周囲の興味なんて関係なく。
「吐き出したい」という欲求があって、その欲求に従っただけ。
いわば、「排泄の快感」を味わいたかったんだろう。
精神的な排泄の快感≒カタルシスを求めていたんだろう。
ただ、その欲求をそのままに排泄しただけだと、周囲はその「排泄物」を目の当たりにすることになる。
最初は他人の「排泄物」に軽い興味を抱いたとしても、マニアでない限り(笑)、「排泄物」への興味は
永続きしない。
だからこそ、「排泄物」を出し続けたいなら、何らかの加工を施してみるほうがいいんじゃないだろうか。
ただの「排泄物」に、いわくありげな意味づけや笑いのエッセンスを加えて、それなりの「コンテンツ」に
仕上げてくれたらよかったのに。
まあ、彼女たちは、聞くヒト(聞こえているヒト)のことなんて考えていなかっただろうけれど、
そこにちょっとしたセンスがあれば、単なるハタ迷惑になるか、車内を盛り上げるエンタになるかという
大きな違いがあったんだけど・・・。
ただの「排泄物」ではなく、読んでくれたヒトへの何らかのメッセージ性がある「コンテンツ」にしたい。
私はいつもそんなふうに思ってブログをやってきた。
・・・・・ホントにそうなっているかどうかは読んでくれたヒトが決めることだけど。
でも、そういう気概だけは持たないと、ネット上が「排泄物」のヤマになっちゃうんじゃないのかなぁ。
ただの「排泄物」のヤマだったら、誰も興味を持ってくれなくなるよな。
そして、「排泄」だけでなく、ホントはそのあとに「共感」して欲しいはずなんだよ、誰もが。
そこへの道を作るのは、もっと大変なことなんだよな。
きのうの夢は見ない。~不可逆性について考える~ [気になること。]
ある寒い夜。
郵便受けを開けると・・・・・

「ねんきん定期便」が届いていた。
中身は、さながら、これまでのサラリーマン人生の歴史の記録だ。
社会人になって初めて給料をもらった時から始まって、時系列で二十数年分の
毎月の標準報酬と厚生年金納付額がズラリと並んでいる。
あ、ここで給料がだいぶ上がってるな。
あ、この頃は・・・・・・。
あ、ここで失業だよ。国民年金だ。
収入と結びついている、まさにリアルな自分史だ。
40代の半ばで、給料がグッと上がっている。
出世したわけじゃない。むしろ、その逆。
こんな、自分に対する評価がおぼつかないような状態で、
将来性もなさそうな会社にしがみついていてもしょうがない。
そう思って一度めの転職をした。

しかし、大失敗だった。
自分の直接のボスとなるヒトとの面談に、
いわゆる「ビビビ」的なひらめきを感じて、
その会社へ身を投じたのだが、
初日に自分の机についた瞬間に後悔した。
社内の雰囲気は、たとえようもなく悪かった。
ボスのイメージ、言動も面談時と入社後は
全く違っていた。
瞬時に後悔したが、もう後戻りのしようがなかった。

By -Gribiche-
そこで半年間は粘ったが、自分が担当していたプロジェクトが
完全に行き詰った状態になり、結局、次のアテもなく退職した。
次に職を得るまで、五ケ月かかった。
時々、二十年勤めた最初の会社の夢を見た。
実際、もう一度、最初の会社へ戻れるよう取り計らう
と言ってくれたヒトもいた。
しかし、私の選択肢に「後戻り」はなかった。
今は非常にハッピーだ。二度めの転職は大成功。
そう思っている。
後戻りしなくて、ほんとうに良かったと。

By OiMax
子供は、非常に保守的だ。
慣れない場所へ行くとすぐに帰りたがり、
外食する時も自分が食べたことのない料理は
決してオーダーしない。
知らないところへ踏み出して、帰れなくなることを
本能的に恐れているのだろう。
「不可逆性」に対する恐怖だ。
死んだヒトは生き返らない。
燃えてしまったモノは灰から元には戻らない。
こぼれたミルクはコップに帰らない。
若かった頃の未熟な恋愛感情が辛かったのは、
相手への未練が断ち切れなかった場合。
もう一度やり直せたら・・・・・。
そんなふうに思う気持ちが捨てきれなかったから。
学生時代にもっと勉強しておけば良かった・・・。
もっと就職について真剣に考えるべきだった・・・。
そんな後悔を繰り返していた日々もあった。
でも、もう振り向きはしない。
そう思うのは、
今の自分を自信を持って肯定できるから・・・・ではないな。
たぶん、息子たちのことばかり考えているから。
彼らのこれからを考える時、考えなきゃいけないのは
自分の「来し方」ではなく自分の「行く末」。
彼らが成長していくなかで、自分はどうなっていくのか。
どうなっていくべきか。
どんなふうに彼らと関わっていこうか。
それが最大の関心事だから・・・、かな。
郵便受けを開けると・・・・・
「ねんきん定期便」が届いていた。
中身は、さながら、これまでのサラリーマン人生の歴史の記録だ。
社会人になって初めて給料をもらった時から始まって、時系列で二十数年分の
毎月の標準報酬と厚生年金納付額がズラリと並んでいる。
あ、ここで給料がだいぶ上がってるな。
あ、この頃は・・・・・・。
あ、ここで失業だよ。国民年金だ。
収入と結びついている、まさにリアルな自分史だ。
40代の半ばで、給料がグッと上がっている。
出世したわけじゃない。むしろ、その逆。
こんな、自分に対する評価がおぼつかないような状態で、
将来性もなさそうな会社にしがみついていてもしょうがない。
そう思って一度めの転職をした。

しかし、大失敗だった。
自分の直接のボスとなるヒトとの面談に、
いわゆる「ビビビ」的なひらめきを感じて、
その会社へ身を投じたのだが、
初日に自分の机についた瞬間に後悔した。
社内の雰囲気は、たとえようもなく悪かった。
ボスのイメージ、言動も面談時と入社後は
全く違っていた。
瞬時に後悔したが、もう後戻りのしようがなかった。

By -Gribiche-
そこで半年間は粘ったが、自分が担当していたプロジェクトが
完全に行き詰った状態になり、結局、次のアテもなく退職した。
次に職を得るまで、五ケ月かかった。
時々、二十年勤めた最初の会社の夢を見た。
実際、もう一度、最初の会社へ戻れるよう取り計らう
と言ってくれたヒトもいた。
しかし、私の選択肢に「後戻り」はなかった。
今は非常にハッピーだ。二度めの転職は大成功。
そう思っている。
後戻りしなくて、ほんとうに良かったと。

By OiMax
子供は、非常に保守的だ。
慣れない場所へ行くとすぐに帰りたがり、
外食する時も自分が食べたことのない料理は
決してオーダーしない。
知らないところへ踏み出して、帰れなくなることを
本能的に恐れているのだろう。
「不可逆性」に対する恐怖だ。
死んだヒトは生き返らない。
燃えてしまったモノは灰から元には戻らない。
こぼれたミルクはコップに帰らない。
若かった頃の未熟な恋愛感情が辛かったのは、
相手への未練が断ち切れなかった場合。
もう一度やり直せたら・・・・・。
そんなふうに思う気持ちが捨てきれなかったから。
学生時代にもっと勉強しておけば良かった・・・。
もっと就職について真剣に考えるべきだった・・・。
そんな後悔を繰り返していた日々もあった。
でも、もう振り向きはしない。
そう思うのは、
今の自分を自信を持って肯定できるから・・・・ではないな。
たぶん、息子たちのことばかり考えているから。
彼らのこれからを考える時、考えなきゃいけないのは
自分の「来し方」ではなく自分の「行く末」。
彼らが成長していくなかで、自分はどうなっていくのか。
どうなっていくべきか。
どんなふうに彼らと関わっていこうか。
それが最大の関心事だから・・・、かな。
「アウェイ感」感じませんか? [気になること。]

By Gustavo Minas
「アウェイ感」とか「アウェイを感じる」なんていう表現を使うヒトがいる。
「ホーム」に対して「アウェイ」?
Jリーグ発足以降の言語センスだな(笑)。
プロ野球世代なら「フランチャイズ」に対して「ビジター」?

いずれにしろ、自分の居場所じゃない、馴染めない、浮いてる・・・・
そんな気持ちを表わしているのだろう。
「他人の顔色を窺う」という言葉には、
自分の考えを持っていない、とか、臆病、受身、消極的・・・というような
「自立していない」「頼りない」系のネガティブな響きがあるけれど、
これを「マーケティング(マインド)」と言い換えると、
妙に賢い、戦略性のある態度であるかのように聞こえる。
「自分を見失う」という言葉の一方で、「郷に入りては郷に従え」という言葉もあり、
良くも悪くも自分と周囲を客観視できることがやっぱり必要だよな、と思う。
「アウェイ感」を感じられるヒトは、そういうセンスの持ち主だと思う。

By claudiogennari
先日、知人が京都競馬場のVIPルームでレース観戦をしたそうだ。
VIPルームに入るには「ドレスコード」があり、スーツ着用だったとのこと。
「ドレスコード」と言えば・・・・・。

仕事のうえで、ゴルフのセッティングをすることがあるが、
ゴルフ場のウェブサイトはなかなか興味深い。
「ドレスコード」に関わる部分が特に面白い。
サラッと「ジャケット着用でご来場を」程度のことを書いているコースもあれば、
「プレー時は襟付きのシャツを着用」、さらには
「襟付き、といってもスタンドカラータイプはNG」などと
シャツのデザイン画まで添えて、これはヨシ、これはダメと説明していたり、
女性向けのこのデザイン以外は、シャツの裾をパンツに入れなければダメ
というような細かい指定をしているコースもある。
場違いな服装で現われる者がいて、他のプレーヤーからの苦情とかトラブルが
多いんだろうなあ、というゴルフ場側の苦悩が垣間見られる。

一時期、樹脂製サンダルがエスカレーターに挟まって危険だという問題があって、
未だにデパートのエスカレーターなんかに注意を促す掲示を見かけるけれど、
そもそもデパートに樹脂製サンダルを履いて買物に来ること自体、
サンダルのメーカーは想定してなかっただろうな、と思ってしまうんだが。
そりゃ、もちろん、
足を骨折してサンダルしか履けないんだよ、というヒトもいるだろうけれど。
でも、問題は圧倒的に、
どこにでも樹脂製サンダルを履いて行っちゃう「センス」にあるような気がする、
と言ったら言い過ぎだろうか。
同じ意味では、休日のオトーサンの「どこでも短パン」も、
ごく私的にはなんとかして欲しいのだが。
ま、さすがにここまで冷え込んでくると、季節的には見かけなくなるけれど。

By Jayray24
「反骨心」だけで人生をここまで過ごしてきた私としては、
「ケッ、気取るなよ」ってな感じで、皆がドレスアップしてくるような場へ
敢えてカジュアルで乗り込むようなセンスなら分からなくもないのだが、
そういう確信犯的なものでもなく、単に「ラクやからエエやん」的なモノ
なんだろうなと思うのだ、アレは。
まあ、仮に前者であっても、場所とタイミングを誤れば、ただの嘲笑の
対象にしかならないと思うのだ。
まさにセンスが問われる。
「アウェイ感」という語感自体はもう一つ好きになれないのだが、
そういう部分に敏感であることは、間違いなく必要だよな、と思う。
アンテナ立ててないと。
価値観の共有はムズカシイ。(おのぼりさんの戯言) [気になること。]

ショッピングに出かけて、来年のカレンダーを売っていることに気づいた。
海辺へ散歩に出かけて、冬の渡り鳥の姿を見かけるようになった。
相変わらず、時間は容赦なく過ぎてゆく。
仕事の殺人的な忙しさに振り回されているうちに、気がついたら、1本しか
記事をアップできないまま、9月が終わっていた。10月も、もう後半。

このところ、ちょくちょく日帰りで東京へ出張している。
仕事と直接的には何の関係ないが、東京ミッドタウンは好きな場所のひとつだ。
東京ミッドタウンには「展望台」がない。
「展望台」があれば、かなり素晴らしい眺望を楽しめるはずだ。
実際、知り合いのツテをたどって、厳しいセキュリティチェックを経てオフィスフロアの
高層階へ行かせてもらった時の眺めは感動的だった。
しかし、「展望台」がない。
なぜなら、東京ミッドタウンは観光客向けの施設ではないから、とのこと。
同じ理由で、大型バス用の駐車場も設置されていない。
緑地のスペースはたっぷりとってあるが、観光客を念頭に置いていないから
バス用の駐車場は確保されていない。
東京ミッドタウンの中心となっている企業の理念には、「都市に豊かさと潤いを」
というものが挙げられている。
つまり、自社施設のみではなく、周囲を含めての繁栄を考えなくてはいけない、
ということなのだろう。
そして、東京ミッドタウンプロジェクトは、「地域密着」を基本コンセプトのひとつ
として展開されたらしい。地域に定着し、地域から「浮かない」ことを大事にした。
だから、観光客が大勢押しかけるような施設作りはそのコンセプトに反する
というわけで、自ずと「展望台」とか「観光バス用駐車場」といったものは
選択肢から消えていったということだ。
すごく単純な、当たりまえのような話に聞こえるけれど、これは意外と
凄いことだと思う。
こんないい場所なんだから、観光客を当て込んだ商売をしても全然不思議じゃない。
にもかかわらず、「欲」に目がくらむことなく、当初のコンセプトを貫き通しているところ
は、ホントに凄いと思う。
いろんな立場・考え方のヒトが開発に関係してきたはずだから、当然、「儲け」に
目が眩んで、路線をブレさせるヒトが現われても不思議じゃないんだが・・・・。
コトの真偽は定かではないが、少なくとも目に見える事象は、確かにコンセプトとの
整合性が保たれており、しかも活況である。
よくある「コンセプト倒れ」つまり自己満足のコンセプトにこだわって、社会的には
全く受け入れられていない(=さびれた)状態とも違う。スバラシイ。そう思うのだ。
みんなで何かをやろう、何かを作ろうという時は、それぞれの思いが似ているようで
違っていることが多い。
それが考え方の幅を拡げて面白い、ということは確かにあるけれど、イザ、やると決めたら
ブレないことが大事だ。
そのためには、基本となる大原則・大前提(=コンセプト)をハッキリと決めて、関係するヒト
たちの共通認識にしなければいけない。
そして、答えに迷ったときは、それに照らしてイエスかノーかを決めればいいはず。
それが徹底されてた(と思われる)ミッドタウンはエライ!
でも、フツーは、大前提をハッキリさせないで、具体論をひとつひとつやるヒトが結構多い。
自分の価値観を他のメンバーと共有できていると思い込んでいるんだろう。
でも、それは幻想だよ。
そんなに簡単に想いが共有できるのなら、もっと物事は簡単に行くはずだもの。
Think why.....”大人”の意味。 [気になること。]

朝の通勤電車で足を踏まれる。よくあることだ。
相手に悪気はない。いちいち怒ることではない。相手も、「すみません」と声をかけてくる。
しかし、同じことが何度も繰り返されると、どうなんだろう、と思ってしまう。
最初は、「すみません」という声が聞こえたが、ただ軽く頭を動かすだけになっている。
まあ、しかたないな、と思いつつ、私の足を何度も踏む相手の状況を見る。
片手にカバン、もう片手で雑誌を広げて読んでいる。そして、電車が揺れるたびによろけて、
私の足を踏む。
カバンを棚に置いて、片手で吊り革をつかめば、体勢はもう少し安定するはずだ。
棚にスペースはあるし、目の前の吊り革も空いている。できないことではない。
しかし、それをしない。そして、電車が揺れるたびに、私の足を踏む。
不可抗力だ。謝ってるじゃん。 そう思ってるのかもしれない。
でも、問題の原因を考えて、対策をすることがおろそかになっているんじゃないだろうか。
「謝った」時点で問題を解決したと考えているんじゃないだろうか。
趣味として、古武術を教えている。教え始めてから、もう15年を越えている。
長く続けている門下生もいるが、すぐに辞めていく者もいる。
辞める者は、だいたいのパターンが決まっている。
「教えてもらおう」という考え方のヒトは、総じて上達が遅い。
このタイプで上達するのは、一部の天才肌だけ。
普通はあまり上達しない。⇒上達しないから、つまらない。
⇒つまらないから辞める。
なぜ、上達しないかというと、「受け身」だから。
どこに問題があって上達できないのかを自分で考えない。
師や先輩からの指摘や指導を待っている。
かといって、指摘や指導を受けたからといって、すぐにその通りに
できるかといえば、できない。(できるのは、天才タイプ。)
「一を聞いて十を知る」ではなく、「いちいち言っても、一ができない」タイプ。
教える側の消耗も激しい。
このタイプは、いろんな意味で尋常でなく「鈍い」場合は続けるが、たいていは辞める。
上達しないから面白くないのか、アドバイスが行き届いていないという不満を感じるのか、
あるいは教える側の秘めた苛立ちを感じ取るのか。
いずれにしても、たいていは辞める。
上達するタイプ、長続きするタイプは「考える」ヒトだ。
なぜ、自分の技は極まらないんだろう。師や先輩はどうやっているんだろう。
観察する。考える。質問する。
飛躍的ではないにしろ、上達する。たとえ腕前は上がらなくとも、自分のなかにある疑問が
氷解していくだけでも、興味を持続させる効果がある。
つまりは、そういう疑問を持つくらい、主体的によく考えている、ということ。
これが大事だ。

*Photography by Chris*
企業の不祥事。謝罪会見。もはや見慣れた光景となり、なんの衝撃もなくなりつつある。
ヒトだから、間違いは起こす。それはしかたがない。
問われることは、それをどう認識したのか。
あるいは、原因はどこにあると分析したのか。
そして、今後どのような形で再発を防止していくのか。
そういったところだろう。
そのあたりを曖昧にしたまま、「謝った」ことで問題は終わったと認識しているようでは
その企業はそこで生命を絶たれるのが、今の世の中だ。
「『ごめん』で済むなら警察は要らない」は子供のケンカの台詞だが、問題の本質を考えずに
謝罪のみで幕引きを図るというのは、後々に禍根を残す。いずれ同じ問題が再発するからだ。
しかし、そういうケースは、日常には意外と多い。「臭いものには蓋」止まりの解決。

by Tambako the Jaguar
子を持つ親として、「怒る」と「叱る」は混同しないように意識している。とても難しいことだが。
感情のままに「怒る」のではなく、ルールに反した行動を「叱る」。
その時は、当然、どこがルールに反しているのかを息子に説明する。あるいは、なぜ叱るのかを
息子に考えさせる。
そうやって、息子が自分なりにルールやマナーを考える習慣をつけさせたいと考えている。
それは、相手が子供だから。発展途上だから。
逆に言えば、大人にそこまで言うのは子供扱い=恥をかかせることだと思うから、はばかられるのだ。
そこまで言わせるなよ、大人やろ。
しかし、そういう考え方はもはや通じない世の中なのかも、とつくづく思う。
かといって、何度も足を踏んで来る相手に、「カバンを棚に置いて吊り革を持ったらどうですか?」
と言うのは、やっぱり余計なお世話のような気がする・・・・・。
考えろよ、気づけよ。大人なんだから。お願い、気づいてちょうだい。
まあ、そう言いつつ、私も無意識に考えもなく、誰かの足を踏み続けているのかもしれない
という不安も常に頭のなかにあるのだが・・・・・。
ド真ん中を行く。それが「自由」。 [気になること。]

このところ、毎朝の新聞に世界柔道選手権(8月26~30日)の記事が載っている。
世界柔道選手権【日刊スポーツ】
柔道は、今や完全に「日本の柔道」ではなく、「世界のJUDO」になっている。
そんなふうに日本の文化が普及しているのは素晴らしいことだが、本来の「柔道」のコンセプトが維持されているかどうかは、とても難しい問題のようだ。
柔道 タックル規制について【時事通信】
多くのヒトの力を集めて何かを成し遂げたいと思う時、何かをヒトビトに広めて行きたいと考える時、大事なコトはその基本となる考え方=コンセプトだと思う。
しかし、それは、ヒトからヒトへ広がり、時間が経過して行くと共に、本来のモノから離れていってしまうことが避けられない運命にあるような気がする。
だから、誤解・曲解を避けるため、「※※である」という肯定的な表現よりも、「※※ではない」という否定的な表現が主流になってしまうのではないか。
「ド真ん中になにがあるか」を説明する以上に、拡散し過ぎることを抑えるためには、先回りして「ここから向こうへ行ってはいけない」という外枠をはめておくことが必要になってくるからだ。

たとえば、「柔道とは※※である」という表現はさまざまな解釈が生まれる可能性があるが、
「柔道はレスリングではない」「柔道は相撲ではない」という表現は解釈の幅が狭い。
また、境界線をハッキリさせることで、「輪郭」を際立たせることができる。
およそルールというものは、そういうモノだろう。
それが何であるかを定義するよりも、「※※ではない」「※※を禁止する」という形で、「外堀」から
埋めていくやり方だ。
しかし、それが「『外枠』を飛び出さない限り『自由』」という解釈となり、「ド真ん中に何があるか」を考えなくなってしまう。思考停止に陥ってしまう。そんな気がする。(あ、これは柔道に限った話ではなく、一般論として)
つまり、「ド真ん中」ではなく、「外枠」を意識することが主になる。
「外枠」の近所をブラブラすることが自由だと考えるようになる。
その一方で、「外枠」をはめる側のヒトは、「どうも広がり過ぎているな」と感じたら、現行の外枠の内側に新たな枠をはめて規制を強める。もちろん、そうすることで、だんだん「輪」の直径は
狭まり、結果的に「ド真ん中」へ近づく。
そういう手法は確かにあるだろう。「イタチごっこ」かもしれないが。

「自由」という言葉は、もともと仏教から来ているという話を聞いた覚えがある。
自由の「自」という字は、象形文字で「鼻」に由来するという説があるが、「鼻」は、まさに顔の
「ド真ん中」だ。
そして、自由の「由」は、「そこから来る」という意味だ。
従って、「自由」とは「『ド真ん中』から来る」という意味になる。
一般的な「自由」のニュアンスは、「支配から外れた自由」(いわゆる"Liberty"の自由)の
イメージが強いが、本来の自由とは「ド真ん中」、つまり"Freedom"の自由だ。
「枠」という基準に基づいて考えるほうが楽チンなので、ついついそのパターンに陥ってしまう。
しかし、そういう「思考停止」にならずに、「『ド真ん中』にあるものは何か?」について思いを馳せなきゃいけないな、と思う。
だって、それこそが「自由」なのだから。
「あうん」じゃダメなのか?~コミュニケーションについて考える~ [気になること。]

古本屋が好きだ。図書館が好きだ。
でも、そういうところでちょっと「落ち着いた」本をゲットして読むのもいいが、
やっぱり「活きのイイ」本も読んでおかないと、そうじゃなくても鈍い感性が
ますます鈍ってしまうような気がする。
そんな思いで最近購入したのが、平田オリザの本。
演劇関係のヒトだが、私は演劇に特に興味があるわけじゃない。
しかし、演劇を通して語る彼のコミュニケーション理論は、非常にリアルで
私自身の感覚にピッタリ来る。
そして、以前に読んだ彼の著書が面白かったので、ついつい新刊を手に取って
しまったというわけだ。
▼平田オリザの本について触れた過去のブログ。▼
その本のなかで、彼はこんな感じのことを言っている。
日本人は、閉鎖的な社会で似たような価値観を持つ集団を形成して暮らして
来た。
「わかるだろ?」「察してよ」という考え方が根底にあるコミュニケーションを
してきた。
しかし、今の日本には日本以外で生まれ育ったヒトも増えてきたし、日本生まれ
日本育ちであっても、価値観の多様化で「あうん」の関係を成立させるのが難しく
なって来た。
となると、「空気を読まない」「雰囲気を壊す」ヒトが現われるのは、そのヒトの能力
(コミュニケーション能力)に問題があるのではなくて、そういう「隠れた前提」を
隠れたままにしていることに問題があるのではないか。
個人のあり方を問うよりも、組織運営を問うべし。
こんなふうな指摘をしている。
これは非常に面白い視点だ。真っ先に思い浮かべたのは、相撲。

今や、完全に「多国籍化」している相撲の世界では、しばしば「品格」という議論が
巻き起こっているが、それはやはり「国技」をベースとした日本独自の美意識に
基づくものだろう。
しかし、それを明文化して「※※※してはいけない」というような形で具体的に提示しない
限り、海外で生まれ育った力士たちに「察してよ」というのは確かに酷なのかもしれないな、
という気にはなってくる。
ただ、気になることは、「観察眼の退化」だ。「心配りの衰え」と言ってもいいか。
たとえば、外国人が日本の銭湯に初めて入ったら、たぶん周りのヒトはどんなふうに
行動しているかを逐一観察して真似るだろう。
おそらく、外国から来た力士たちも、自分たちがトップランナーになるまでは、周囲を
模倣していたはずだ。

by:hi-tekznologik
分からないことを分かろうとして、周囲に関心を払って研究する。
これはすごく大事なことだ。
彼女に毎日関心を払って見ているから、今日は元気がないな、とか、今日はテンション
高そうだな、というのが分かる。
それを、彼女が「今日は気分が悪い」とか「なんだか元気が出ない」という「申告」をして
くれないと分からない、というのではなんだか寂しい。
そういう「察する」力は、答えが隠れているからこそ働くわけで、最初から答えを明示して
おくべき、となってしまうと、そういう力が育たないんじゃないかと心配になってしまう。
実は、このあたりが、いつも妻との諍いの発端になる。
妻は言う。「あなたは言わないから分からない。そのくせ、分からないとご機嫌が悪くなる」
しかし、私に言わせれば、「分かるか」「分からないか」は「見ているか」「見ていないか」
で決まる。分からないのは、私を見ていない、つまり私に関心を払っていないということだ。
赤の他人であれば、言葉で伝えなければしかたない。
でも、いちばん近い関係のおまえにまで、同じように必要なことは全て「申告」しなければ
いけないの?
オリザの言うとおり、過度な期待はせずに、必要なことは明言していかなければいけない
時代になってきたことを認識すべきなのだろう。
でも・・・・それでもやっぱり、「察する力」「見習う気持ち」は磨き続けていくべきじゃねえの?
と思うのだけれど。
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